LOGIN「……」
ものを言うはずもない野菜たちを、凝視する。
間違いない。夕李は、私がこの煮物を大好きなことを、知っている。
どうやって。
なぜ。
彼は一体、いつから私のことを……どんな私を知っているというの?
夕李も私の記憶のどこかにいるのかもしれないと、考えてみたことはある。彼と過ごすことで、私の中の宝箱の鍵が開くかもしれないと。彼は優しい。この料理にしても、私をいたずらに驚かせるつもりではなく、喜ばせたくて、私に力をつけさせたくて作ってくれたことが伝わってくる。どこか謎めいているけれど、私をとても大切にしてくれているのは確か。
彼とこの山で出会ってから、間もなくの頃に見た夢を思い出す。夢の中で晧司さんは、十頭立てのカボチャの馬車を操るのに苦労していた。夕李は、月の都の使者として、かぐや姫である私を迎えにきていた。夢の中の私は、絶対に帰らないと宣言していた。
あの夢の話をした時、夕李は楽しそうに笑ってく
彼はバスローブからガウンに着替えていた。お昼過ぎに着ていたものよりも、体のラインがはっきりと出るタイプ。色は黒で、彼の男性的な部分を一層引き立てている。 飲み物を用意すると言ったのにそれをせず、彼の部屋の前で壁にもたれて欲を感じていたことを、ごまかす暇はなかった。私は、服の上から自分の胸を触ろうとしていたのだから……。クリーム色のワンピースは雲のようにふわふわと軽く、小さな動きでも大きく揺れる。 ガウンの下に、彼は何も着ていないように見える。全身から匂い立つような色気を、隠すのではなく強調するために、そのためだけにガウンを纏っている……そう思える。少しでも動けば露わになりそうな胸元から、目を離すことができない。ゆっくりと浮かべた笑みは、昨夜以上の嵐の訪れを予感させる。「どうしたのかな? リン」「え……」「続きを」 腕を組んで、今出てきた扉に背を預けた晧司さん。彼の意図するところがわからない。いいえ、わかってしまうのが、怖い……。「怖がることはない。ここにいるのは君と私だけだ。……さあ、見せてごらん」 彼の言葉を、頭よりも早く心と体が理解した。自分でも驚いたことに、私は彼に見せつけながら自らを官能の海へと誘い始めた。「はぁ……ん……」 全身が感じやすくなっている。早く触りたくて、恥ずかしいけれど服をずらそうとすると、「まだだ。我慢しなさい」と制止される。もどかしさも興奮の材料となり、熱が高まっていく。見られながら自分を慰めることに、戸惑いつつも悦びを感じて止まらない。焦らされれば焦らされるだけ、欲しくなる……今日、私に対して遠慮がちにしていたのも、プレイの一環だったのかと勘繰ってしまいそうになる……。「今夜は休ませてあげたかった……そのつもりでいたんだが、これでは難しいな」「あっ……」 壁と彼との間に挟まれ、体が密着した。彼が本能的に私を欲しがっていることが、押し当てられた部分から伝わってくる。
お風呂上りに何か飲み物を用意しようと、キッチンに足を向けた。カチャリと音がして、浴室の扉が開いた。「……やあ」 バスローブに身を包んだ晧司さん。髪が濡れていて、胸元にはまだ水滴が見える。漂うシャンプーの香りに誘われそうになる。 夕方から夜へと移っていく時間帯。昨日あそこまでした関係なら、私がこのまま縋りついてもおかしくはない。そうすることを一瞬ためらったのは、心の準備ができていなかったせい? 彼が具合が悪くて寝ているなら、治るまで結論を伸ばせる……無意識に、そう考えて安心していたかもしれない。「あれから、頭痛は?」「大丈夫……。晧司さんこそ、気分は?」「強い薬を飲んだから眠気はあるが、症状はもう随分といいんだよ。優秀な看護師さんのおかげだな」 確かに、お昼にはガラガラだった声も、ほとんどいつも通り。まだ数時間しか経っていないのに。「よかった。いい子で寝てましたからね。今、何か飲み物を。お部屋に持っていきます」「このまま起きてみるよ。部屋に戻って着替えはするが、このあとしばらくリビングで過ごすつもりだ」「わかりました」 平静を装った会話。彼の寝室は廊下を挟んですぐ。目で追い、今日何度か出入りした扉の向こうへと、いったん姿が隠れるのを見守った。 物足りない思い。彼の状態を考えもせず、昨夜のように奪ってほしいと欲望が渦を巻く。一夜で植え付けられたにしては、強烈。昨夜思い知らされた執着は、私が長い間に慣らされたものに違いない。彼は私が愉悦を覚える場所を知っていた。私も、彼に応えるすべを知っていた。 彼が元気になってきたとわかった途端、体内の獣が目を覚ます。ここは自分の部屋ではなく廊下なのに、どこにいるかなんて関係なく、彼に触れてほしくなる。昨夜の行為を思い出してしまう。ううん、思い出そうとしてしまう。事細かに。それより前のことは、私の頭が覚えていなくても、心と体が覚えている……。 昨夜、欲を爆発させたのは、晧司さんだけではない。私も、彼を貪った。一緒にいては危険なのは、私ではなく彼の方と言ってもいいくらいに。 もし……あの指輪の人がほかに誰か存在して、それでも私と晧司さんが愛欲でつながって離れられないのだとしたら? 私は、そういう関係を許容する人間だったのだろうか。誰とどんな関係性を築いていようと、私だけを見て、私に溺れて……そんな要求をす
後ろ姿が見えなくなるまで、見送った。夕李は、もう振り返らなかった。 彼は、「すず」と言いかけて「リン」と言い直したようだった。あれは、自分の言葉を、晧司さんの言葉に置き換えていたのではないかしら? 影野夕李。彼のことを、晧司さんも、七華さんも、多分春日さんも、以前から知っていた様子はない。夕李が私とどこかで親しくしていたのなら、初対面のように現れたのはなぜ?「あ……」 開けたままにしておいた玄関を入りかけて、ハッとした。 夕李は、私が記憶喪失だということを知っていて、今の私の前に現れた、ということになる。何の目的で? ううん、それよりもまず、私が記憶喪失であることをどこで知ったの? おそるおそる、後ろを向いてみた。 誰もいない。 夕方の衣を纏い始めた山が、風とダンスをしているだけだった。 少しの間、私は立ち尽くしていた。 いくら待っても山が答えをくれるわけもなく、ひとつ深呼吸をして中へ戻った。玄関の扉が閉まる音に安堵した。外界との扉。ほかの人も出入りするけれど、基本的には晧司さんと二人だけの空間。ここには、謎だけが詰まっているのではなく、巣穴のような安心感がある。 私は、夕李から身を守るためにここに匿われていた? まさか! もしそうだったなら、晧司さんたちは彼を知っているはずだし、ここに出入りさせるわけもない。 夕李は、ここに閉じ込められている私を救い出しにきた? それも違う気がする……。 一人で出せる答えではない。人に答えを任せるのも怖い。結局のところ、私は晧司さんのことも、夕李のことも、私自身のことさえも、データとしては何も知らないに等しい。彼らと重ねてきたあたたかな時間だけを信じてきた。 これからも、それでいいのだろうか。何かが少しずつほぐれてきている今、これまでのように心地よいものを信じているだけでは、前には進めない。かと言って、彼らがくれた優しさの根っこを疑っているわけでもない。 真実がどんな関係であろうと、晧司さんも夕李も、私
「どうしたの?」「もし……」 零れた言葉を、「ううん、何でもないの」などとごまかすことはできなかった。ここまで大切にしてくれる人を、自分の都合で忘れたままでいることは、過去の彼に対する裏切りに思えるから。過去の……どこかで時を共にしたことがある、私と夕李に対しての裏切り。その時間を自分の中に取り戻したいと願うことが、正しいのかどうか、わからないけど……。「もし、私が記憶を取り戻すためにあなたの力が必要になったら……力を貸してくれる?」「それは……」 彼は、断るかもしれない。思い出したいと願うことは、彼にとって、または誰かにとって、望ましくないのかもしれない。私が忘れたままの方がいいと考える人もいるかもしれない。 夢の中の私。「絶対に帰らない」と、きっぱりと言ったかぐや姫。 かぐや姫の故郷は、月。 夕李は私をアルテミスと呼ぶ。月の女神。私が彼をアポロンと呼び始めたから、だけではなく。以前も彼は私をそう呼んでいたのではないかしら。夢の話を彼は笑ってくれたけれど、私はひどく残酷なことをしてしまった……? かぐや姫は、月に帰らない。それが、「私は夕李が知っていた月の女神には戻らない」という意志表示なのだとしたら……? 意識の底で眠っている私自身が、自分に対して発した警告だとしたら? 風の中の木漏れ日のように、気持ちが揺れる。 晧司さんは、私と起居を共にするほど親しかった。 夕李とは、お互いを神話の名前で呼び合うほど、打ち解けていた。 これらが意味するものが何なのかを知りたい。以前の彼らとの関係を知って、自分の気持ちを見定めたい。「わかった。君がそう望むのなら」 夕李はゆっくりと言った。「ありがとう」「……ずるい言い方ですまない」「そんな風には取っていないわ」 私が望まないうちは、私が思い出したくないうちは、そっとしておこうと考えていたことがわかる。「さっき言いかけたことなんだけどね。……天霧さんは、こう言っていたよ。す……リンは薬味を様々乗せたお粥にハマっていたからね、と」「晧司さんが? そう……」 ぼんやりと返事をする私に、「明日ね」と笑顔を見せて、彼は今度こそ帰っていった。
氷の歌が、やんだ。夕李は私を切なげに見て、「ごちそうさま」と言った。「こちらこそ」 もっと何か言いたいのに言えないまま、玄関へと向かう彼を追った。彼は靴を履きながら、「明日、また来るよ。お昼頃にね」「わかったわ。今日は本当にありがとう」 逸る心を抑えて、お礼を述べる。私もサンダルを履いて、ドアの外へ出た。昨夜の嵐とは打って変わって、世界は喜びに輝いている。けれどその中に、どこかに落とし物をしてきてしまったような寂しさが漂う。木の葉の間をすり抜けてくる光は、それを探して地上に下りてきたかのよう。私も、記憶を失った時にたくさんの落とし物をしてきたんだろうな。「ここでいいよ。今日はまだ、空気が不安定だからね」 玄関から道路までのなだらかなスロープを、並んで歩こうとした私を、彼がやんわり止めた。昨日の昼までの私たちなら、このまま長い散歩をしたかもしれない。「気を付けてね」「うん」 明日も彼はここへ来る。なのに、妙な気分。何だか、あとひと言を今告げないと、永久に言えなくなるような……彼という手がかりを失ってしまうような焦燥感に囚われる。 夕李がスロープを下りていく。背中が遠ざかる。昨夜のテールランプが脳裏をよぎった。思わず名を呼ぶと、彼は振り返った。
「……」 ものを言うはずもない野菜たちを、凝視する。 間違いない。夕李は、私がこの煮物を大好きなことを、知っている。 どうやって。 なぜ。 彼は一体、いつから私のことを……どんな私を知っているというの? 夕李も私の記憶のどこかにいるのかもしれないと、考えてみたことはある。彼と過ごすことで、私の中の宝箱の鍵が開くかもしれないと。彼は優しい。この料理にしても、私をいたずらに驚かせるつもりではなく、喜ばせたくて、私に力をつけさせたくて作ってくれたことが伝わってくる。どこか謎めいているけれど、私をとても大切にしてくれているのは確か。 彼とこの山で出会ってから、間もなくの頃に見た夢を思い出す。夢の中で晧司さんは、十頭立てのカボチャの馬車を操るのに苦労していた。夕李は、月の都の使者として、かぐや姫である私を迎えにきていた。夢の中の私は、絶対に帰らないと宣言していた。 あの夢の話をした時、夕李は楽しそうに笑ってくれた。「カボチャの馬車……」 奇妙な暗合。「ん……」 かすかな頭痛。これ以上考えるのは、今はやめておいた方がよさそう。 そこへ、太陽神の気配が近付いてきた。「すず」 私をただ一人、すずと呼ぶ人。振り返ると、いつもの優しい微笑。私も笑みを返した。「今、お鍋の中を見てたの」「ああ……」 彼は決まり悪そうに、「作りすぎたかな」「ふふ……おいしいから、すぐに食べちゃうと思う」「なら、よかった」 会話の中にも、瞳の奥にも、暗い影は感じられない。彼は本当に、私がこれを好きだからと、ただその想いだけで作ってくれたのだ。もしかしたら、きっかけはあの夢の話だったのかもしれない。「天霧さんは、しばらく眠ってみると言っていたよ。あの様子だと、次に起き
晧司さんは、間取りを説明しながら私を運んだ。建物は横に長くて、玄関から伸びる廊下の右側には寝室が二つ。晧司さんのものと、奥は私のために用意させたという。廊下の左側には、晧司さんの書斎と、ゲストルームとしても使える和室。これらの四つの部屋の入口は、途中で左右に分かれて伸びる廊下に面している。 左右のどちらにも折れずまっすぐに進むと、右手にお風呂やトイレ、左手にキッチンを見ながら、リビングに出る。キッチンの向こうには、和室と向かい合う位置に洋室のゲストルームがある。ダイニングとほぼつながった形のリビングからは、光り輝く湖を一望することができる。 「素敵……」 感嘆のため息を漏ら
退院するまで、ついにほかの親族と会うことはなかった。 別荘へ移ったのは、六月中旬のよく晴れた日。それまでは梅雨らしく、雨が降り続いていた。 時間がかかるからと、私が横になれる車が用意され、運転手は晧司さんの古い知り合いだという男性が務めた。春日雷斗と名乗った四十歳くらいの彼は、どこか、時代劇で殿様にお仕えする忍びのように思えた。晧司さんは、「当たらずといえども遠からず、だな」と笑った。 途中、何度か休憩を入れながらたどり着いた山中。開けた場所に広がる広大な湖。そのほとりに佇む瀟洒な建物は、初めて見るのにどこか懐かしく感じた。 出迎えてくれたのは、私と同じくらいの年頃の、きりっとした
天霧鈴、二十七歳。十二月二十一日で、二十八歳を迎える。 今、わかっていることはそれだけ。職業も、元の住まいも、晧司さん以外の身内の存在も、一切知らされていない。先入観なく自分で思い出せるのならその方がよいから、と言われている。 あの日、お医者様に呼ばれた晧司さんは、「すぐ戻るよ」と私の手を握った。彼の体温だけが、この世で唯一、確かなものに感じられた。ほかに私を知っているという人が現れる様子もなく、看護師さんが何度か出入りした。自分が点滴だけで生かされてきたこと。それは、かなり長い期間であること。少しずつ状況がわかってきた。 病室は特別室で、晧司さんは親族用に仕切られた小部屋で寝泊
『大きなリビング』からテラスへと出られる窓は、開け放たれていた。半分だけ屋根がある広いテラスには、朝食の支度が整っている。晧司さんは、柔らかな椅子に私をそっと下ろした。彼は、向かい側ではなく私の右隣。 七月上旬の光は強いけれど、適度に日陰ができる造りなのであまり気にならない。水面を渡るそよ風は涼気を含んでいる。 「気持ちいい……」 ほぅ、と息をついて、コーヒーのポットに手を伸ばした。晧司さんのカップを引き寄せ、ゆっくり注ぐ。彼は何か言いかけたけれど、黙って待ってくれた。ん……重いけど、大丈夫。ポットを置くと「ありがとう」と温かな声。彼はお返しにと、私にカフェオレを作ってくれた







